光市事件差し戻し審の判断について

4月24日のエントリーにt_keiさんからトラックバックを頂きました。

その中で私の発言に対して以下のように触れられています。

「セレモニーとしての刑事裁判」に寄せられた批判について - 諸悪莫作

その通りなんですけど、今回の差し戻し審の判決要旨を読む限り、被告人の新供述の信用性についてはかなり細かく検討されています。他の証拠との整合性から判断して信用性を否定したわけですし、その判断は妥当だと思います。そうなると「反省謝罪の態度とは程遠い」と評価されるのはやむを得ないと思いますし、そのような評価が不利な方向に働くのもまたやむを得ないと思います。
光市事件差し戻し審判決に関して1 - 妄想日記

これらの批判に対しては、「判決要旨に『太陽は西から昇る』と書かれてあったら、あなたはそれを信じるのですか?」と尋ねたい。なぜ判決の要旨のみを判断の材料として、「その判断は妥当だ」と言いきれるのだろうか。なぜそれだけで「反省謝罪の態度とは程遠い」と「評価されるのはやむを得ない」「そのような評価が不利な方向に働くのもまたやむを得ない」とするのだろうか。その論拠はいったいどこにあると言うのだろうか。

t_keiさんは私の発言をかなり誤解しているようです。誤解していないとすれば、かなり私と考え方が異なるようです。前半部分と後半部分に分けて論じます。

これらの批判に対しては、「判決要旨に『太陽は西から昇る』と書かれてあったら、あなたはそれを信じるのですか?」と尋ねたい。なぜ判決の要旨のみを判断の材料として、「その判断は妥当だ」と言いきれるのだろうか。

検察側の主張にせよ弁護側の主張にせよ、その妥当性は適切な検討が行われた上で判断されなければなりません。その検討の際に重要な要素となるのは、他の証拠との整合性です。今回の場合において重要な点を一点挙げると、被告人の新供述は死体痕跡との整合性がありません。一方、旧供述はそれがあります。他の客観的証拠と整合性のある供述とない供述について、前者の信用性が高いのは当たり前ですし、差し戻し審ではきちんと慎重に検討した上で判断されています。「被告人の新供述の信用性についてはかなり細かく検討されています」「他の証拠との整合性から判断して信用性を否定した」ときちんと書いています。
私が「判決の判断は『これこれの理由で』信用できる」として述べたことを、t_keiさんには「判決の判断は信用できる」と置き換えられてしまったようです。

なぜそれだけで「反省謝罪の態度とは程遠い」と「評価されるのはやむを得ない」「そのような評価が不利な方向に働くのもまたやむを得ない」とするのだろうか。その論拠はいったいどこにあると言うのだろうか。

最初に一般論としてですが、犯行後に真実を述べ深く反省している人と、ウソデタラメを並べ立てて反省していない人では、前者の方が刑が軽くなる方向に評価されます。これ自体は、私は当然のことでありそうあるべきだと考えます。
今回の被告人が真実を述べているのか、それともウソをついているのかについては、前述のように詳細に検討された上で判断されていますし、その結果、ウソをついていると判断された以上、刑が軽くなる方向に評価されない、すなわち不利な方向に評価されるのはやむを得ないと思います。t_keiさんが、「いや被告人はウソなどついていない、真摯に真実を述べているのだ。なのにウソをついていると判断され、それが不利な方向に働いたのはおかしい。」とおっしゃるのなら、真実を述べているかウソをついているかの判断はともかく、筋としては同意します。しかし、もし「そんなことは一切刑の軽重に考慮してはならない」という主張なら、賛成できません。