相変わらずすごいな

光市母子殺害事件の判決公判も近づいてきたところで、刑ま御三家の一人南雲しのぶさんが自身のブログで2つほどエントリーを立てた。

なんというか、相変わらずすごい。トンデモ電波全開である。細かいところまで突っ込むときりがないので小さな間違いはスルーするとしても、細かくないところだけでも山ほど突っ込みどころがある。
たとえば以下の文章。

日本の裁判というのは何にしても長い。
9年かかってもまだ確定できずに居る。

「マスコミ情報だけで適当にたわごとを書き散らしているんだろうなあ」ということがよくわかる文章である。マスコミ情報しか基にしない人には意外だろうが、日本の裁判は早いのである。もちろん例外的に、1回や2回じゃとてもじゃないが判決が下せない事件はあるし、マスコミがネタにするのはそういう事例が大半だから、南雲さんが「日本の裁判というのは何にしても長い」という感想を持っていても驚くに値しないが。
また面白いのが以下の文章である。

裁判というのは加害者に罰を与えるだけでなく、社会に対して「罪を犯すとこれだけ厳しい制裁が待っている」ということを訴えかけるものでなければならない。
それには、単に「公開」していさえいれば良いというのではなく、迅速でかつ正確に裁判を行ない判決を下し、それを社会に広く知らしめなければならないものだと思う。
事件発生から日が経てば経つほど人の記憶から薄れて行き事件自体だけでなく判決への関心も薄らいでしまう。

裁判が公開されている第一の理由は「被告人のため」である。公開裁判を受けることが被告人の権利であることは憲法学の教科書には絶対書かれていると思うのだが、南雲さんはそんなものは読まないだろう。読まない本にいくら書いてあっても意味がないのがつらい。
さらに続く。

ただ心配なのは、一部の弁護団シンパでは、その主張全てが受け入れられるのが当然が如く思っているようで、主張が退けられた場合や検察主張に沿った判決が出た場合、「不当判決」「妨害工作があった」など勝った負けたと騒ぎ立てるのではないかということだ。

私も光市事件についてはいろいろ意見を見て回っているのだが、「その主張全てが受け入れられるのが当然が如く思っている」「一部の弁護団シンパ」は見たことがない。そのような人は南雲さんの脳内にしかいないんじゃないか?もちろん当の弁護団が対外的には「その主張全てが受け入れられるのが当然」と主張するのは当たり前である。本心でどう思っていようとも。

すでに最高裁判所判決で現在弁護団が必死になって主張していることのほとんどは封じられている。

最高裁は差し戻し審で弁護団が主張していることについては何の判断もしていないのだが。最高裁は2審までに認定された事実に基づいて判断したのである。

彼らは一体その点をどう思っているのか、ほとんどその点の言説は見当たらず無視しているかのようだ。
ここは、最高裁判決を前提にして、弁護団側の主張をどれだけ認めてもらえるのかを見るのが流れと言う物だと思うのだが。

最高裁の判断は2審までの事実認定に基づいたものだから、それを前提にしても全然意味がないとまでは言わないが、それよりこれまでに出されたすべての証拠に基づいて弁護団側の主張がどれだけ認められるのか考えるのが筋である。そしてそれは第一に裁判官の仕事であり、すべての証拠に目を通しているわけではない人は、それを承知の上で不正確な予測をするのが精一杯だし、そのようなことならしないという考えをとる人が多くても不思議はない。ちなみに、私が不正確を承知の上で予測すると、弁護団の主張は説得力がなく殆ど認められないだろう。とくに「殺意はなかった」とか「姦意はなかった」とかいう主張が認められるとは思えない。

次のエントリーも電波全開だ。たとえば「光事件ではいろいろなことが起きて、法律の世界と日常生活とのかけ離れていることが分った。」と書いて、それに続く文章が以下。

死刑又は無期若しくは長期三年以上の懲役若しくは禁錮にあたる罪の場合では、必ず弁護士がつかねばならないこと。

そんなことも知らないで自分のブログに「研究室」と名付けて裁判について意見書いてたのか。恥ずかしくないか?「〜場合では、必ず弁護士がつかねばならないこと」を「日常生活とのかけ離れている」と言っているが、これは南雲さんの感覚が逆じゃないか?刑事裁判は国家権力と市民の争いだ。適正な裁判を行うために、被告人に弁護人が付くのは当然だろう。むしろ、「〜場合以外では、弁護士がつくとは限らないこと」を意外に思ってほしい。
これ以外にもすごい文章がある。

さて、今回の懲戒処分請求についてへ話しを戻そう。
懲戒処分請求の是非については別の機会に取り上げるとして、これまで結果の出た全ての弁護士会で「問題なし(懲戒しない)」という結果になっている。

確かに法律的、弁護士会的にはそうなのだろう。
それは良いのだが、この請求の中には「公判期日が決まっていたのに日本弁護士連合会(以下「日弁連」)主催のイベントのリハーサル出席」も理由の一つとなっているのだ。
もちろん、この事ばかりが理由ではないことも分っている。
弁護士会でも「それを理由にしたのは適当でない」とは言っているが、日弁連弁護士会と言えば親と子のようなもので利害関係にある。

そのような関係の中で正しい判断ができるのだろうか?
弁護士会を指導・監督する立場にあるのが日弁連なのですから。
仮に正しい判断をしたとしても「利害関係にあるもの同士の馴れ合い」と受け取られかねない。
せめて、その部分だけは別に第三者委員会を設けて判断してもらうことも大切なのではないだろうか。
後顧の憂いを払うためにも。

論点の読み取りづらい文章だが、要約すると「日弁連主催のイベントの出席を欠席理由とするのは適当でないにもかかわらず、弁護士会日弁連に気を使って(及び腰になって)『日弁連主催のイベントの出席は正当な欠席理由である』と判断する可能性はないか?」というあたりだろうか。って、自分で『弁護士会でも「それを理由にしたのは適当でない」とは言っている』って書いてるじゃないか。自分で書いてておかしいと思わなかったのか?「後顧の憂いを払うため」とあるが、南雲さんクラスの人の邪推に配慮する必要があるだろうか。ちなみに、欠席の件については唯一まともな懲戒事由となり得るものであるが、対象となるのが弁護団の中で安田弁護士と足立弁護士の二人しかいないのに加え、懲戒請求を煽動したあの橋下弁護士も支持している行動であるため、これを持ち出して懲戒請求騒動を正当化するのは難しい。

追記
あれから9年の歳月が」のコメント欄でkenji47さん(この人はトンデモではない)の指摘で南雲さんが以下のコメントを書いている。「なにをいまさら」と言いたくなることが多い。「放言室」にブログタイトルを変えたらどうだろうか。

「不自然さ」を裁判官がどう受け取るかが今回の判決の要点になるわけですかね。

今頃気付いたのか。というか、裁判官の存在をなんだと思っていたのだ。

「言いたい事を言い尽くす」ことの大切さは理解できますが、今回の裁判に限らず何かもっと効率的な方法はないものでしょうか。

非効率だと思う部分はどこだ。そこを書いてないと誰も答えようがないだろう。

高裁(第一次)では「殺人、強姦致死、窃盗」であるから「無期懲役」という判決だと思いますが、「殺人でも強姦致死でもない」のなら、いくら「無期懲役」で納得しても控訴すべきではないのでしょうか?

被告人の自由だろうそれは。

認めるということは、やってもいない「殺人犯」の汚名を着せられるということですよね。
なぜ納得したのでしょう?
被告弁護団は裁判外で「(納得)させられた」というような発言をしていたかに記憶していますが、それが本当ならこれこそ問題だと思いますが。

それが問題だということは弁護団がさんざん主張している。弁護団がさんざん主張していることを今になって「これこそ問題だと思いますが」って、何について書いていたのだこの人は。

それはさておき、一度出た判決を認めておきながら明確な物的証拠があるわけでもないのに「証拠をこうみればこうとも読める」とか「記憶違いだった」とか言って主張を替えられるのであれば終わりが見えないんじゃないですか?
この裁判、再度、最高裁に行くでしょうが、そこに行ってもまた主張を変えて来る可能性があるってことですものね。

最高裁は差し戻さずに自判することもできるし、上告を棄却することもできる。そもそも適法な上告理由というものを考えたことがあるのか。まあ、適法な上告理由など言い出したら検察官を批判することに繋がるから、弁護団批判厨はやらないだろうが。

「死刑回避」については、もちろんそうな訳ですが、「死刑廃止(論を通すため)のためにしているのではない」という弁護団の主張と齟齬が出てくるようにも思ったので聞いてみました。

「個々の事件で死刑回避の主張をすることと、本人が死刑廃止論者であることとは関係がない」ということが理解できない人がいるのには驚いた。どれほど強い死刑制度支持者でも、さらに被告人がクロだと確信していても、「このような被告人は死刑が相当です」なんて主張を弁護人がするわけがないだろう。懲戒請求煽動者であり死刑制度支持者である橋下弁護士自身が、「自分が弁護人でも弁護団と同じ主張をしている」と言っていることを知らないのか。もっともこれは後付の言い訳でなされたものだろうが。さすがに弁護士である橋下氏には「このような主張をすること自体が失当である」という立場は貫けなかったようである。なら最初から馬鹿なこと言うなよと思うのだが。