福島事件も論告求刑までいったけど…

犯罪被害者等の権利利益の保護を図るための刑事訴訟法等の一部を改正する法律(平成十九年法律第九十五号)で被害者等(以下、単に被害者)の刑事司法参加がかなり拡充されました。この法律自体には私は反対の立場です。反対する理由は、刑事裁判の目的を阻害する可能性が多々あるということが大半ですが、それとは別に、時に被害者を著しく傷つける可能性が高いと認識しています。その想いを強くしたのは福島大野病院事件の公判でした(ただし平成十九年法律第九十五号は直接関係しません)。福島大野病院事件は、ご存知の方も多いでしょうが、福島大野病院で帝王切開の手術を受けた患者が、非常にまれな癒着胎盤という疾患であったため、不幸にも亡くなられた事件です。この事件に関しては、ネット上でも多くの意見が出されており、医師のブログでもその意見を確認できます。

上記意見を見ていただければわかるように、多くの医師たちは本件手術に誤りはなく、本件患者は病死であり、本件被告人は無実であると主張しています。またそれは公判でも主張されており、弁護側証人が被告人の過失を認めない証言をするのは当たり前として、検察側証人ですら本件被告人の手技、今回検察側が過失だと主張している術中のクーパーの使用について「過失である」と証言できませんでした(第六回公判・田中憲一新潟大医学部産科婦人科学教室教授)。本件において、患者は病死であり被告人の過失ではなく、ゆえに被告人は無実であることが多くの医師によって主張されており、本件被告人が逮捕された2月18日には多くの医師がネット上に支援コメントを書きました。

その福島大野病院事件の第十二回公判において、遺族の意見陳述が行われました。
遺族の方々が二度と同じ事が起こらないようにという強い思いを有していることがひしひしと伝わってくる内容ですが、極一部に、このままだと遺族の方々がもっと傷ついてしまうのではないかと危惧する部分があります。
以下の引用はロハス・メディカルからです。

旦那さん
「被害者の夫です。このたびは、私のために貴重なお時間をさいていただいてありがとうございます。私の立場で心境について述べるのはありがたいことです。
(中略)
今回、私がお話したいのは、責任についてです。手術を受ける患者は、手術中、自分の力ではどうしようもありません。信頼する先生に命を預けるのです。当然、先生には責任があると思います。加藤先生には、いいわけや責任転嫁をせず、何が欠けていたのか、正面から向き合ってほしいです。
加藤先生の手術の内容は、弁護側の先生からは誰でもする、特に問題がなかった、と言われました。何も問題がなければ、なぜ、妻は死んでしまったのか、とても疑問です。
(中略)
私もそうですが、誰でも自分がかわいい。しかし、自分のとった行動、言動には責任をもつことが、大人として当然だと思います。いいわけをせず、大人として責任をとっていただきたいです。子供と妻のために、責任を追及し、責任をとってもらいます。私も父親の責任として、子供を育てていきます。
(以下略)」

お父さん
「今回の事件の被害者の父として心境を述べます。
(中略)
病院関係者から、娘の死にあたっては、他の病院、十分設備も整った他の病院であれば良かった、安全対策をしなかったという内容がわかりました。肉親にとっては、大学病院の調査報告と報道と同じ内容でした。大野病院でなければ、娘を亡くさずにすんだと、強く感じました。これで何故事故が起きたのか、真相を究明できると感謝しました。
1年がすぎ、加藤医師が逮捕されました。癒着胎盤が極めて稀で、1万分の1、とか、2万分 の1とか、難易度が高いとか、大出血は稀だとか、亡くなったのは娘のせいだとか、言われました。これらは、娘に対する人権侵害、誹謗であり、遺族は逆境の中にいます。医学の真実を集めていない書き込みや、誤解のないようにしてくださることをお願いします。
(以下略)」

お弟さん
「今回の被害者の弟として、心境を述べます。
(中略)
病院から、姉がなぜ死ななければならなかったのか、説明がなく、真実が解明できず、苦悩していた両親に、光をさしのべてくれた、警察、検察に、感謝しています。
(以下略)」

この事件に関しては、他の多くの医師と同様、被告人も「医療ミスはない」と主張していまして、無罪を主張して争っています。そして前述したように、その主張は多くの医師に支持されています。まだ一審判決すら出ていない状態ですが、仮に被告人が無罪であったなら遺族はどういう想いにとらわれるでしょうか。
今回の事件で、もし医療ミスがあったのならば、本件被告人は加害者です。しかし医療ミスなどなかったとしたらどうなるでしょうか。今回の事例は、前置胎盤かつ癒着胎盤ですから、医療行為が介在しなければ母子共々命を落としていた事例です。しかし今回においては、本件被告人医師の努力により、子供は助かっています。母親についても、被告人医師は、およそ考えられる最大限の救命努力を行っています(第十回公判・池ノ上教授への証人尋問参照)。その努力は結果的には報われなかったとはいえ、世の中には死に至る不治の病というものはありますから、仕方のないことです。遺族にとって被告人は、子供の命を救ってくれた恩人であり、母親についても、救命のために多大な努力を払ってくれた恩人です。しかし遺族の意見陳述の内容は、それとはかけ離れたものです。

旦那さん
子供と妻のために、責任を追及し、責任をとってもらいます。

もし医療ミスなどなかったとしたら、被告人に対してすべきことは、責任の追及でなく感謝の意を伝えることです。

お父さん
癒着胎盤が極めて稀で、1万分の1、とか、2万分 の1とか、難易度が高いとか、大出血は稀だとか、亡くなったのは娘のせいだとか、言われました。これらは、娘に対する人権侵害、誹謗であり、遺族は逆境の中にいます。

癒着胎盤が極めて稀な事例で死に至る可能性が高い疾患であることが、その患者に対する人権侵害や誹謗になるという考え方は成り立たないと思います。

お弟さん
病院から、姉がなぜ死ななければならなかったのか、説明がなく、真実が解明できず、苦悩していた両親に、光をさしのべてくれた、警察、検察に、感謝しています。

死ななければならない理由がなくても、病気や寿命などで死んでしまうのが人間という生物です。「なぜそのような(死に至るような)病気にかかってしまったのか」という問いを発したくなる気持ちは十分に理解できますが、病院に答えを求めることはできません。今回の事件において、もし医療ミスがなかったとしたら、警察・検察は感謝される対象とはなりえません。
ロハス・メディカルの同エントリーのコメント欄にも遺族の陳述内容に疑問を投げかける意見が散見されます。

(投稿者: 山口(産婦人科) | 2008年01月25日 16:46)
ご家族の無念の思いは分かるのですが・・・
夫「特に問題がなければ、なぜ、妻は死んでしまったのか、とても疑問です。人はそれぞれ異なります。それを、医学的に同一と言われ扱っても良いものでしょうか。分娩室に入るときには、病院は、必要な安全のためのものが整っているところです。医師の機転や処置のとりかた、手術に間違いがなければ、なんで妻は死んでしまったのでしょうか。」の証言が非常に矛盾している事にお気づきなのでしょうか。人はそれぞれ同一ではないからこそ、間違いのない手術をやっても死亡に至ることがあるのですが。
 父上の発言でも医師の書き込みが誹謗中傷だとおっしゃいますが、後壁の癒着胎盤が非常にまれなのも母体死亡が起きる可能性があるのも事実なので、これを「医学的真実ではない」といわれる根拠が理解できませんね。
名古屋の産科でも母体死亡で刑事事件になり、医師が無罪を獲得したときの遺族の言葉が「過失がないならなんで亡くなる」でしたが、過失が亡くても人は死ぬことがあるのだと言うことを、このご遺族も分かっていらっしゃらないように思います。

(投稿者: 岡山の内科医 | 2008年01月26日 00:23)
ご遺族のご心痛には、深く同情いたします。
ただ、やるせないのは、
臨床医学では、処置が十分であっても、重大な結果に到ることが多々ある」
という厳然たる事実を、ご遺族が理解(というか納得)していないことを確認できたことでした。
やり場のない怒りを抱かれるのは十分にわかります。
しかし、その矛先がK医師に向かうべきではないと思います。

(投稿者: 循環器内科医 | 2008年01月27日 10:01)
ご家族を失った方の落胆は十分理解できますが、どうしても命を奪ったk先生というくだりが許せません。 一医師先生から患者に強い憎しみを持つ医師とのコメントがありましたが、このように人殺し呼ばわりされることが日常なら、憎しみしか抱けません。
K先生には是非無罪を勝ち取り名誉毀損訴訟を起こしていただき、一般の人の目を覚まして欲しいと願っています。 

(投稿者: yama | 2008年01月28日 13:12)
ご遺族の方、さぞや無念なことでしょう。気持ちもよくわかります。遺族としてこの感情は当然のことなのかもしれません。そして亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。
しかし、以下厳しい意見ですが、事実なので言わせていただきます。こんなことズケズケという医師は信じられない!という患者さんもいるかもしれませんが、それこそ感情論であり、感情論が世の中を支配したらみな自分のやりたい放題になり、世の中めちゃくちゃになるという事実を知っておく必要があります。
よくよく遺族のコメントをみれば矛盾だらけの感情論に過ぎないことに気づきます。つまり、遺族のコメントには理論的な根拠は何もなく、ただ、自分の感想に過ぎません。それは申し訳ないけど、小学生レベルの感想文と同じでしかないのです。少なくとも我々医療の専門家にとってはそのようにしか感じません。司法に何ら影響が無いべきと言うことです(ここで遺族の感情に配慮した判決を司法が下せば、我々医療者はもはや司法を信じなくなるでしょう)。
つまり、気持ちはわかるが、判決には左右されない、あくまでも一個人の意見、ということです。

もし医療ミスなどなかったということが判明し、被告人が無罪とわかれば、遺族はさらなる苦しみを受けることになります。最愛の身内を亡くしたという苦しみに加え、子供の命を救ってくれ、母親についても(叶わなかったとはいえ)救命のために多大な努力をしてくれた医師を犯罪者呼ばわりして非難してしまったという苦しみです。そしてその苦しみは、誰のせいでもなく自分のせいです。心の中で思っていただけなら立ち直ることもまだ容易いでしょうが、法廷で発言してしまった以上、裁判を思い出すたびに激しい自責の念にとらわれてしまうのではないでしょうか。
今回の、意見陳述だけ(平成十九年法律第九十五号が絡まない)だけでもこのようなことが想定されますから、そうでないケースはどうなるでしょうか。いままで、死刑判決を受けた事件で再審で無罪となった例があることはご存知だと思います。起訴されてから真犯人が見つかり無罪となった例もあります。遺族が被告人を厳しく問い質し、厳しい刑を求め、その後に真犯人が見つかった場合、遺族はどのような立場に置かれてしまうでしょうか。本当のことを言っている人(否認事件と仮定)に対しうそをつくなと糾弾し、無実の人に対して極刑を求めておきながら、真犯人が別に見つかったからといって、手のひらを返してその真犯人を糾弾し、極刑を求めることができるでしょうか。自分が感情にまかせて無実の人を糾弾し極刑を求めておきながら、それを棚に上げてまた別の人を糾弾し極刑を求めることなど、普通の人にはできません。人としてできません。そんなことができるのは「誰でもいいから加害者と決めて処罰してくれ」とでも考える人ぐらいでしょう。
そうなると遺族は、最愛の身内を失った悲しみ、無実の人を糾弾してしまった自責の念に加え、真犯人を糾弾し恨むことさえできなくなります。遺族は被害者になんと言えばいいのでしょう。遺族が被害者の墓前で手を合わせることすらできなくなってしまう、そのような可能性を危惧します。