糺問主義の克服は簡単な話じゃない

前回のエントリーで紹介した意見について、なんといいますか突っ込みどころ満載の意見なんですが、意見そのものへの突っ込みはちょっと保留して、なぜこんな意見が出てくるのかを考察してみたいと思います。元の意見が意見だけに、考察というより単なる占いにしかならないでしょうけど。
まず近代司法制度ですが、これは糺問主義を克服して成立したものです。糺問主義というのは訴追する者と裁判する者が分化しておらず、職権で手続を開始することが認められていました。被告人の真実義務が前提となり、黙秘権をはじめとした権利は承認されていませんでした。カロリナ法典22条にあるような法定証拠主義の元、自白採取のためには拷問すら法律的に認められていました。被告人に不利な証拠が存在するが、有罪証明に足りないときは、法定刑より軽い刑や特別刑が科される嫌疑刑、有罪判決に確証がなく、しかし有力な嫌疑があるときに言い渡される、新たな嫌疑が出るといつでも審問を再開できる仮放免という制度が存在しました。「疑わしきは被告人の利益に」という原則はなく被告人は事実上有罪と推定され、「一事不再理」もなく疑いが残る限りいつまでも刑罰を科される状態にありました。慎重な審理や被告人の弁護権などどこ吹く風です。以上の糺問主義の制度をみて、なにか思いませんか。そう、いわゆる刑ま系の人たちの望む制度とまったく同じなんです。

ロス疑惑三浦和義サイパン空港で逮捕された。 日本の最高裁で無罪判決が確定してる男だけに何で、今つう気はするが、アメリカに新たな証拠があるなら結構な話だ。
アメリカには第1級殺人のような重大事件には時効がないつうのもむしろ、当然と思える。 一事不再理の原則つうが、米国には米国の法がある。 米国内で逮捕された者には「一事不再理」は適用されないつう。
結構なことだ。 有罪にする新証拠がなければならないが・・・逮捕した以上、あっちにも面子はあるだろう。
存分にやって、真相を明かにして貰えばええ。
大体、日本の最高裁の判決言うたって・・・大した判決はない。 疑わしきは罰せず・・・十分な証拠を集められなければ、被告の利益になるつうやり方。 考え方の違い・・・疑わしきは罰する方がむしろ当然のように思うけどねー・・・。

Re:三浦容疑者逮捕にみるメディアのぶざま
投稿者---カスパール・ハウザー(2008/03/04 20:20:07)
ん〜
法的には確かにそうなんですけど、こいつがのうのうと大手を振ってシャバをノシ歩いている社会も何か変なんですよね(笑)
この際なんでもいいからブチ込んでしまえ!ってのが、僕の正直な感想でもあります。

大体日本の裁判はおかしいです。 被害者の権利を保護するものでは無く、加害者の権利を守ろうとするものですからね。 僕は一定の線引きを決めて、情状酌量の余地の無い罪には一切の同情(弁護すること自体も含め)なんて無くしてはどうかと思っています。

「やぶにらみ」は弁護士というものは事態を正当に見て、不当な量刑を正当なものにするために弁護するという事を忘れて「どのような犯罪者をも無罪にするのが商売である」と思っている人が多いのに呆れる。

刑ま系の人たちの意見をみて、「反民主主義(全体主義思想とか主体思想とかいろいろ)の人が多いなあ」と思われている方も多いと思いますが、そりゃそうです。民主主義思想を支持している人は糺問主義を採りませんから。
それはともかく、近代に入り民主主義思想が採られるようになると、権力分立が国制の原理となり、基本的人権という概念が承認されるようになります。それに伴い、糺問主義による刑事手続は激しい批判の対象になりました。糺問主義の根本的欠陥は、訴追と裁判の機能が分離していないために被告人が糺問の客体となるところにあります。裁判所を公平な審理機関とするために、訴追と裁判の機能を分離する弾劾主義が採用されるようになりました。弾劾主義においては被告人は訴訟の主体であり、黙秘権が認められ、「疑わしきは被告人の利益に」「一事不再理」などの原則が採用されるようになりました。
弾劾主義を採用した場合、刑事裁判は、裁判官/訴追者/被告人の三面構成になります。その場合、主導的役割を裁判所が果たすのか、当事者が果たすのかにより職権主義と当事者主義に大別されます。糺問主義を克服し弾劾主義に移行する過程は各国のおかれた歴史的社会的事情によりさまざまで、主に大陸では職権主義、英米では当事者主義が採用されました。職権主義/当事者主義の話をしようとするとまだまだ長くなるんで、とりあえず今回は触れません。


さて、前回述べたように糺問主義という概念は職権主義に傾いた公判の運営を批判する形容詞として用いられることも多いですが、だからといって、職権主義/当事者主義という二つの言葉をそのまま糺問主義/弾劾主義に置き換えちゃいけませんし、糺問主義/弾劾主義について書く文章で、現在の欧州諸国の職権主義を糺問主義と書いてはいけません。弾劾主義かつ職権主義という制度は存在しますし、現在の欧州諸国の制度はまさにそれですから。にもかかわらず、なんでそんな置き換えをしようとするのでしょうか。
みてきたように、糺問主義というのは反民主主義的な制度です。民主主義の要請が糺問主義を捨てさせ弾劾主義を選ばせたわけですから、当然ですね。ですから、糺問主義を主張する刑まさんは(本人は意識していない場合もあるでしょうが)、反民主主義的な主張をしているわけです。もちろん「反民主主義的でどこが悪い!」と思っている人はそんなこと気にもかけないでしょうし、実際、現在でも非民主主義的な国は存在するわけですし、かまわないのですが、そうでない人、形の上では民主主義を支持しているということにしたい人もいます。そういう人はなんとかして糺問主義を民主主義的な手続だと主張したいわけです。
そこで利用するのが「糺問主義という概念は職権主義に傾いた公判の運営を批判する形容詞として用いられることも多い」という事実です。これを使って、職権主義を糺問主義に置き換えます。そして、糺問主義についていくつか説明した後、職権主義を採用している民主主義国について説明して、あたかも糺問主義が民主主義的手続であるかのように書くわけです。たとえば「糺問主義では被告人に積極的真実義務がある」ということを述べて、その後にフランスの職権主義を糺問主義に置き換えて(これが詭弁。その文脈では置き換えできない)、そのような糺問主義的な手続が民主主義に適うかのように主張するわけです。
それにしても、全体主義にせよ共産主義にせよ(あるいはそれ以外でも)、それを主張するだけなら好みの問題なので、トンデモにはならないのに、そんな詭弁を弄したばかりにトンデモ主張になってしまいました。そればかりか、弾劾主義かつ職権主義を採用している諸外国も侮辱する内容になっています。詭弁を弄して他国を侮辱するぐらいなら、素直に(たとえば)「天皇陛下万歳!」と叫んでいたほうがよほど精神的にもいいかと思うんですけどね。

追記
コメント欄で紹介頂いたページですが、コメント欄ではリンクタグが使用できないため、ここに記載しておきます。