薬物の自己摂取による心神喪失

こんな記事がありました。

 覚せい剤所持・使用や不法残留、強盗致傷など10罪に問われたイラン国籍、名古屋市千種区上野、塗装工ジャムシッド・モハマディ被告(34)の判決公判が17日、岐阜地裁であり、田辺三保子裁判長は覚せい剤所持・使用と不法残留のみ有罪とし、懲役2年執行猶予4年(求刑懲役10年)を言い渡した。覚せい剤使用後に及んだ強盗などは「覚せい剤の影響で心神喪失の状態にあった」と無罪を言い渡した。

心神喪失というのは精神機能の障害により是非善悪を判断することができないか、またはその判断に従って行動することができない状態をいいまして(法律学小辞典/有斐閣)、犯罪成立要件は「構成要件に該当する違法で有責な行為」ですから、心神喪失で無罪というのは当然なんですが、その心神喪失の原因まで考えると難しいものがあります。心神喪失の原因が、他人に無理やり薬物を投与されたとか、精神疾患によるものでしたら、自分の意思ではどうにもなりませんし、非難可能性がなく処罰の必要がありません。前者なら処罰すべきは投与した人ですし、後者なら必要なのは処罰でなく治療です。しかし、心神喪失の原因が、自己の意思による薬物摂取だった場合はどうでしょう。これを「処罰の必要がない」とするのはおかしな話だと思います。
心神喪失になるぐらい薬物(アルコールとかも含めて)を摂取するというのは悪いことです。そして、当人はそれが悪いことだと知っていてやってるわけです。「シャブでラリって人を殺した」これを道義的に非難することができないというのには納得できないものがあります。その「納得できないこと」、すなわち処罰の必要があることが正しいとしても、どうやって「処罰してよい」という結論を導くかといえば、またまた難しい問題があります。単純に「責任阻却自由はあるけど処罰する」というのはありえない話です。犯罪成立要件を満たしていないのに処罰することになってしまいますから。あくまで「責任は阻却されない」と判断されないといけません。
自らの意思で覚醒剤を摂取し、心神喪失に陥り、その状態で人を殺した場合、人を殺した時点、すなわち犯罪行為時は責任能力はないわけですが、覚醒剤を摂取した時点、すなわち原因設定時には責任能力があります。このような場合に、原因設定時に責任能力があったことを理由に、人を殺したという結果発生について行為者の責任を問おうとする理論に「原因において自由な行為」の理論があります。
この理論構成には主に二つありまして、一つは間接正犯類似の構成をとります。間接正犯というのは、他人を道具のように利用して犯罪を実行させることで、これ自身にも学説上の論点が多々ありますがそれはさておき、他人ではなく「責任無能力状態の自分」を道具として犯罪を実行させた点を間接正犯類似ととるわけです。この説の長所に、「行為と責任の同時存在の原則を満たすこと」があります。間接正犯類似だとすると、間接正犯において利用行為は実行行為ですから、すなわち薬物を摂取した行為は実行の着手となり、行為と責任の同時存在の原則は破られません。とはいえ、この説にはいくつかの問題点があります。たとえばですが、完全酩酊状態で人を殺そうと思って飲酒した場合、飲酒した時点で実行の着手となるわけですが、そうなると、そのまま酔いつぶれて寝てしまった場合でも殺人未遂罪が成立することになります。あるいは、酩酊状態になる前に殺害した場合は実行の着手が二度あることになります。
それ以外にもいろいろあるわけですが、それに対するもう一つの説は、行為と責任の同時存在の原則を緩和するものです。簡単に言えば、原因行為時に存在する有責性を根拠に、結果行為についての責任を行為者に認めようとするものです。一理ある考え方ですが、この説の問題点はまさに「行為と責任の同時存在の原則を緩和する」ことそのものにあります。
これらについては、私程度で「こうすればいいんだ」といえる問題ではありません。なんらかの立法的措置を視野に入れて検討する必要がありそうな気がします。