裁判員制度

3月5日のエントリーに以下のブックマークコメントを頂きました。

[我らは神の代理人][★]で、こういうバカ共が陪審員になるわけだ。日本の未来は暗い。

コメント中の陪審員裁判員の誤記だと思われますがそれはともかく、「我らは神の代理人」というタグはまさに的を射た表現だと思います。別に誰が神の代理人だろうとどうでもいいのですが、神の代理人であること「だけ」を理由に、その意見を社会に取り入れるのには大きな問題を感じます。たとえば以下のブログですが

  • ちゃんちゃんのたわごと

橋下弁護士が”逆”懲戒請求を受けるのコメント欄におけるブログ著者のコメント
僕は世の中には弁護される価値も無い・反論する権利も無い殺人等の犯罪者は少なくないと思っています。
(引用者注:エントリータイトルは原文ママ)

世の中には40km以上の距離を2時間ちょっとで走破したり、100mを10秒未満で駆け抜ける能力を持った人たちがいるぐらいですから、弁護/反論を聞かなくても「弁護される/反論する権利もない犯罪者であることがわかる」能力を持った人がいてもいいとは思います。いいとは思うんですけど、その能力は個人の範囲内で使えても、社会で使うのは不可能でしょう。たとえばですが、ちゃんちゃんさんが「俺にはマスコミ情報を無邪気に信じ込む能力がある!」と主張したところで、その信じた結果が正しいかどうかは他の人には「調べてみないとわからない」わけですから。
ただ、この手の超能力者は裁判員制度にさほど影響を与えないと思います。そのような能力を持っている人は極めて少ないですし、仮に多数派であったとしても、そのような能力に基づいて刑事司法制度を作ってはならないことは民主主義社会では常識ですから。
むしろ問題になりそうなのは以下のようなケースですね。

  • 南雲研究室

「死刑以外の余地はない」(山口県光市母子殺害事件考)
やはり、2人の命を被害者側に落ち度が無いにも関わらず奪っておいて、それが故意だ過失だと争う事自体虚しさしか残らない。
仮に過失であったとしても日本の刑罰の最高刑が科せられるべきであって、許されるものでは決して無い。

「仮に過失であったとしても」「日本の刑罰の最高刑が科せられるべき」というあたりに注目です。「法定刑の最高」ではなく「日本の刑罰の最高刑」すなわち死刑です。
殺人罪が成立するためには殺人の故意が必要です。そして殺人罪なら死刑を科すこともできます。しかし殺人の故意がなければ殺人罪は成立しません。たとえば、暴行の故意しかなくて他人を死なせた場合は、結果的加重犯として傷害致死罪が成立するのみです(*1)。
結果的加重犯には、航空機強取等致死罪のように法定刑に死刑のある犯罪もありますが(*2)、傷害致死罪にはそれがありません。当然死刑にすることはできないわけですが、そうなるとこの手の人は、そういうケースで殺人罪の適用を主張するような気がします。「殺意はない」→「なら傷害致死罪」→「それだと死刑にはならない」→「死刑相当だ」→「だから殺人罪適用」という流れです。
おそろしいことです。事実認定もなにもあったもんじゃありません。罪刑法定主義もへったくれもありません。おそらく神の代理人にしかできない主張でしょう。こんなことを裁判の場でくそまじめに主張する人が現れたりしたらと思うと、ぞっとします。


ちなみに、光市事件では検察官は死刑を求刑していますが、これは「殺意はなかったという被告人の主張が信じられないから」です。「仮に殺意がなかったとしても死刑相当だ」などとは主張していません。検察官は法律の専門家ですから「本件において殺意がなければ死刑にはなり得ない」ことは知っています。


(*1)…暴行致死罪という犯罪はありませんが、前回エントリーで述べたように傷害罪は暴行罪の結果的加重犯でもあるので、暴行の故意で死亡させたら傷害致死罪が成立します。
(*2)…法定刑は死刑または無期懲役外患誘致罪を除けば、強盗致死罪や人質殺害罪などと並んで、事実上日本でもっとも法定刑の重い犯罪の一つです。