刑ま系の人々2

時折、刑事司法に関して神の視点で意見を述べる方がおられる。

最近の裁判における弁護士の弁護姿勢は疑問に思うことが多いですね。被疑者について予断を持ってはいけないことはわかりますが、それにしても弁護士としての仕事は、有罪を無罪にすることなんでしょうか? おかしいと思いませんか?

そりゃおかしいだろう。というか、基本的に有罪と立証された人間を無罪にすることなど、弁護士には不可能である
どうも当該ページの筆者は「犯罪者であるか否かが裁判もせずにわかる」能力をもっているようであるが、このような「神の視点」から判断している人は少なくないらしく、以下のような文章が散見される。

不利な立場にならないように弁護する仕事が弁護士だと思っていましたが、
犯罪者を無罪にする仕事が弁護士ですか?

最近の弁護士って、なりふり構わない感じ?
サラ金にひっついてるし犯罪者を無罪にしようとするし、金になりゃなんでもするのが弁護士なの?

本来なら有罪となるべき人が、弁護人が頑張って弁護したばかりに無罪になったとしたら、刑罰を受けるべき人が受けなくなるわけだから、そんなことはないに越したことない。しかし実際には、弁護人がなんと言おうと有罪と立証された人は有罪になる。当たり前のことだ。無罪になった人というのは、有罪だと立証されなかった人なのだ。もちろん有罪だと立証されなかった人は、立証されなかっただけで本当は有罪かもしれない。しかしそれは、人間には分からない、神様しか知りえないことである。
そしてここが重要であるが、「犯罪者だという疑いが十分にあって、実際に本当は有罪なのだが、有罪だと立証できなかった人」と「犯罪者だという疑いが十分にあって、でも本当は無罪で、有罪だと立証できなかった人」というのは、人間の目では区別がつかないのだ。当たり前といえば当たり前で、この両者の区別がつくなら、前者は有罪だとわかっているわけで、すなわち「有罪だと立証できなかった人」ではない。
「犯罪者だという疑いが十分にあって、実際に本当は有罪なのだが、有罪だと立証できなかった人」を処罰してもよいという主張は「犯罪者だという疑いが十分にあって、でも本当は無罪で、有罪だと立証できなかった人」を処罰してもよいという主張と同義である(繰り返すが、この両者は人間の目では区別がつかない)。「あなたが有罪であるということは立証できませんでしたが、でも処罰します。」と言われて納得する人が世の中に何人いるか、はなはだ疑問である。
そして「検察官の主張に穴があり、有罪の立証になっていない(合理的な疑いを入れる余地がある)」のならば、そのような被告人は無罪となるべきであるし、それをするのはまさに弁護人の役割である。