助詞の役割

日本語の文法の特徴のひとつに、語順が比較的自由なことがあげられる。

太郎が花子に本を貸した

ごく普通の文章だが、この文章は「貸した」を最後に置く限り、残りの文節はどのように入れ替えても意味が変わらない。

花子に太郎が本を貸した
太郎が本を花子に貸した
本を太郎が花子に貸した

上記の文章はすべて最初にあげた文章と同じ意味であり、それ以外の入れ替えでも意味が変わることはない。日本語はこのように語順がとても自由なのである。さらに、「貸した」の位置すら移動させることも不可能ではない。「貸した」の位置を変えた「本を貸した、花子に太郎が」でも意味は通じる。このような記述は倒置法と呼ばれ、文章によっては強調的修辞技法として積極的に使われる。
このような語順の自由さであるが、これはたとえば英語にはないものである。「Taro eats a persimmon.」は「太郎が柿を食べます」という意味であるが、これの語順を変えた「A persimmon eats Taro.」だと「柿が太郎を食べます」という意味になってしまう。ところが元の英文を日本語に逐語訳した「太郎が食べます、柿を」と、同じく語順を入れ替えた「柿を食べます、太郎が」は、同じ意味なのだ。
この違いは日本語と英語の格の与え方にある。「太郎が食べます、柿を」と「Taro eats a persimmon.」は、ともに「太郎(Taro)」が主格で「柿(persimmon)」が目的格であるが、英語でそれを与えているのはその語の位置である。英語では「eats」の前にある単語が主格、後ろにある単語が目的格になる。つまり、「Taro」はeatsの前にあるからこそ主格となり、「persimmon」はeatsの後ろにあるからこそ目的格となっている。そのため、語順を入れ替えると意味が変わってしまうのだ。しかし日本語はそうでない。日本語で「太郎」が主格なのは「食べます」の前にあるからではなく、主格をあらわす助詞「が」を伴っているからなのだ。同様に、「柿」が目的格なのも、目的格をあらわす助詞「を」を伴っているからだ。そのため、語順を変えても意味が変わらないのである。
従って、日本語といえども助詞を伴わず(すなわち単語単位で)入れ替えた場合には意味が変わってしまう。「お巡りさんの犬」だと警察犬の意味であるが、「犬のお巡りさん」だと、迷子の子猫ちゃんに困ってしまってワンワン鳴く警察官の意味になってしまう。余談だが、いくら迷子になったといえ猫に対しては警察官は動いてくれないだろう。そのような役目を与えられていないからだ。猫に交番とはまさにこのこと。だから、迷子になった猫は周りの人間が優しく家に連れて行ってあげるべきである。とはいえ猫は警戒心が強いから、ちゃんと挨拶してから接するようにしよう、特に夜は。猫にこんばんわ。
話を戻して、助詞はこのように日本語の中では重要な役割を果たしている。そのため、大学の中には助詞を専門に研究している大学もある。有名なのはお茶の水助詞大学あたりか。そのような研究の成果もあって、最近では助詞の中に日の当たらない存在があることがわかってきた。現在明らかになっているのは、並立助詞の「や」、格助詞の「を」、古語終助詞の「ゐ」である。これらは助詞の中で例外的に日陰者の存在である。助詞であることを自ら捨てているといってもよい。この三つの助詞「やをゐ」は助詞の範疇に入らないと考える人もいて、そのため腐助詞と呼ばれている。