推定無罪の原則

誰であろうと、有罪が確定するまでは無罪の推定を受ける。いわゆる推定無罪の原則である。

  • 世界人権宣言11条1項

犯罪の訴追を受けた者は、すべて、自己の弁護に必要なすべての保障を与えられた公開の裁判において法律に従って有罪の立証があるまでは、無罪と推定される権利を有する。

  • 市民的及び政治的権利に関する国際規約(国際人権B規約)14条2項

刑事上の罪に問われているすべての者は、法律に基づいて有罪とされるまでは、無罪と推定される権利を有する。

この原則から、刑事裁判においては、検察官が合理的な疑いを入れる余地のない程度に犯罪事実を証明しなければならないという原則、言い換えれば、有罪と証明できなかった場合は、無罪の証明がなくとも無罪となるという「疑わしきは被告人の利益に」という原則が導かれる。被告人は自分の無罪を証明する必要はない。
従って裁判官は、八割方有罪だと考えられても、証明しきれていない、合理的な疑いが残っている状態では、無罪判決を下さなければならない。建前はそうなのであるが、裁判官も人間であるので、極稀に「疑わしきは検察官の利益に」と言いたくなるような判決もみられる。
職業裁判官ですらそうなのだから、これから裁判員が参加するようになったらどうなるだろうか。特に重大な事件となると、公判前にマスコミがいろいろ記事にしてしまう。被害者を前面に出して読者/視聴者の涙を誘う記事なんかは最強だ。
果たして、このような報道にさらされた一般市民が、法廷で出された証拠からだけで適切な判断ができるだろうか。「報道にあったから」「被害者がかわいそうだから」という理由で判断してしまいそうで怖い。「疑わしきはマスコミの利益に」「疑わしきは被害者の利益に」というわけだ。
まあそういう人は極一部だろうし、そういう人を予め適切に排除できれば問題ないのかもしれないが、そこまでのリスクを負って導入する意味があるのだろうか。
日本の刑事司法の行く末が心配である。