真実を語る

9月21日のエントリー「光市母子殺害事件NEXT」の、こっこさんのコメントにあった「被告人には真実を語って欲しい」という部分への私の意見です。
最初に建前というか、理想論を書きます。なんらかの罪を犯したとき、それを隠そうとするのは良い行いではありません。黙り込んで隠し通そうとしたり、あまつさえウソをついて言い逃れようとするのは人としてどうよ、と思います。まあやっちゃダメなことでもやってしまう人間はいるものなので、罪を犯したときにウソをついて逃れようとしてしまう人はいるでしょう。そういう人には、きちんと「しっぺ返し」があるべきです。
さて、ここで被告人および弁護団に失礼極まりないことを承知の上で(そして、おそらく裁判終了時に謝罪しなければならないであろうことを承知の上で)、私が上告審以降の被告人の供述を聞いた上での見解を書きます。それは、あえて言葉を選ばずに言うと「わあ、ウソくせえ」です。ちょっと信じられませんよこれは。弁護側提出証拠を考慮に入れたとしても、これで姦淫の故意も殺人の故意もない、すなわち「傷害致死だ」というのは無理がありすぎませんか?
でもね、私は別にその時点では「被告人に真実を語って欲しい」とは思わなかったんです。その理由はいくつかあるんですが、ひとつは「被告人の主張が信じられるかどうかを今まさに確かめている最中」であること。被告人の主張がデタラメであるなら、それは検察官が明らかにすべきものです。すべての証拠に照らし合わせてはじめて、「被告人の言うことなんて信じられません」と結論付けられるはず。すべての証拠に目を通しているわけでもないのに、「そりゃウソだ」を決めてかかるわけにはいきません。そしてそれはまさに裁判という過程で確かめることなので「ウソついちゃいけねえよ」と批判するのは裁判が終わってからにすべきでしょう。そしてウソだった場合には「判決」という形でしっぺ返しがくるわけですし、それでいいじゃないか、仕方ないじゃないかと思うんですね。
さらにこの裁判の場合、仮に検察官の主張がすべて真実だったとすると、「真実を語る」とはすなわち「検察官の主張をすべて認める」ということになるんですが、その場合、死刑判決が出る可能性が高いです。つまり「真実を語ると死ぬ」という状況です。もちろん「真実を語ると死ぬ」という状況になったのは単なる自業自得であり、同情するようなことではありませんが、でも「真実を語ってしまうと死んでしまうので真実を語らない」というのは仕方ないんじゃないかと思っています(この「仕方ない」というのは好意的に言ってるわけではなく「あきらめ」のようなものです)。
なので、私は「罪を犯してしまった場合、その罪と向き合い、きちんと真実を語るのが人として正しいあり方だ」とは思いますが、そこまで(世間一般で言われているほど)「真実を語って欲しい」とは思っていないんです。



そして、この裁判を離れて一般論で2点ほど。
1点目、「真実を語るべき」という観点からなら、「何も語らない」というのも同じく批判されるはずです。実際そのとおりで、「罪を犯して黙り込む」というのは「罪を犯してしまった場合、その罪と向き合い、きちんと真実を語るのが人として正しいあり方だ」という考え方に反します。しかし被告人には「黙秘権」があって、「何も語らない」というのは認められています。「何も語らないとは何事だ」という批判は「黙秘権を行使するとは何事だ」という批判とイコールなわけで、この批判は適切でない。単に「法律で黙秘権が認められているから」なんて単純な話じゃないですよ(長くなるんでここでは書きませんが)。
2点目、「真実を語って欲しい」という場合、実は言って欲しいのは真実じゃなくて、「自分が真実だと思っていること」なんてことが往々にしてあります。このブログで取り上げたことのある奈良の妊婦死亡事件の遺族も「真実を知りたい」として訴訟を起こしましたが、「言って欲しいのは真実じゃなくて、『自分が真実だと思っていること』」じゃないかと思うことがあります。なので、「真実を語って欲しい」という言葉は軽々に使う気にはなりません。