確定有罪の原則

刑事裁判において、被告人は有罪判決が確定するまでは無罪の推定を受けるわけですが、これはもちろん我々部外者が新聞記事等からなんらかの推測を行なうことを妨げるものではありません。新聞やテレビで報道された事実から、特定の事件を犯罪であると推測したり、特定の行為を行なったとされる人を犯罪者であると推測することは普通に行なわれています。報道された事実が誤りである可能性は常にありますが、非常に信頼性の低いソースであったり、記者やアナウンサーの推測ないし妄言を事実であると誤認したものでない限り、報道された事実が正しいと仮定してなんらかの推測を行なうことはおかしなことではありません。その推測が論理的でないとか基本知識に欠けるとか等の問題があればおかしな結論が出てきますが、「報道された事実が正しいと仮定してなんらかの推測を行なうこと」自体が問題視されることにはなりません。
一例ですが、大阪地下鉄御堂筋線であったあの痴漢でっちあげ事件について、被告人男性を犯罪者だと推測している人は非常に多いと思います。私もそう推測しています。現在報道等で知りえる情報を前提にする限り、彼が犯罪者でないと推認させる事情は見つかりません。
しかしその推測は、あくまで我々部外者が勝手に行なっているものに過ぎず、刑事裁判の場に持ち込んでよいものではありません。たとえ有罪と推論することが合理的であったとしても、被告人である以上、有罪判決が確定するまでは、刑事手続上では無罪の推定を受けなければなりません。
しかし情けないことに、世の中には「自分の推論」が刑事裁判において前提となっていないことに不満を持つ人たちが少ないながらも存在します。そういう人たちは、自分が犯罪者であると推測した被告人が、有罪判決が確定するまでは無罪の推定を受けていることを嫌がります。自分が「あいつは犯罪者だ」と判断したら、刑事裁判もその前提で進むことを望みます。「加害者を守るための裁判なんていらない」と思っていることでしょう。、いわゆる自称一般人の持つ「確定有罪の原則」です。自分の判断が絶対で、「加害者かどうかは裁判で明らかにすること」という考えはないんですね。もちろん自称一般人の原則が刑事裁判の原則になることはありません。
そういう人たちにとって、裁判というのは「被告人に罪を認めさせ反省させる場所」です。被告人が犯罪者であることは彼らにとって確定事項ですから。「馬鹿」の一言ですませてしまえれば話は簡単です。実際そうしたいんですが、これから裁判員制度も始まることですし、司法制度の基礎ぐらいは義務教育で教えておくべきなんでしょうかね。