冤罪の可能性

私は死刑存置論者である。世界的には死刑廃止論が優勢のようであるが、私的には死刑制度を支持している。やはり、一定の犯罪抑止力はあると思うし、極刑もやむを得ない重罪というのは存在すると考える。もちろん死刑廃止論にも説得力のある理由はあり、そのひとつが「冤罪だった場合、執行後にそれがわかっても取り返しがつかない」というものである。これは確かにそうだ。もちろん懲役刑だって失われた時間は取り返しがつかないし、破壊された生活だって元に戻らない。しかし死刑と比べれば、取り返しのつかない程度は格段に大きい。でも私はそれも踏まえて、死刑存置論を支持する。では自分が冤罪で死刑になったらどうするか。もちろんそれは嫌である。嫌であるが、それは覚悟しなければならない。死刑制度を支持している以上、自分が冤罪で死刑になっても仕方がないという覚悟を持たざるを得ないだろう(*1)。

  • ちゃんちゃんのたわごと − 橋本弁護士を応援しましょう! のコメント欄

 僕も彼ら弁護団の言う事も解らなくない部分は有ります。 例えば、

 (1) 死刑廃止論を主張する理由
   (冤罪による取り返しのつかない死刑問題)
 (2) 犯罪者の権利を守ること
 
 などが代表的なものでしょうが、(1)は裁判の精度を上げる事と、冤罪の可能性の有るものは無期懲役とする事で回避できますし、(2)に関しては、やはり「被害者の権利・気持ちはどこいった?」という気持ちの方が強いです。 被害者の権利と加害者の権利は別物ですが、ちょっとやりきれないですね。

(引用者注:規格外文字を変更しています)

「冤罪の可能性の有るものは無期懲役」って、それはあり得ない。すべての被告人は無罪の推定を受けており、検察官が合理的な疑いを入れる余地がないまで有罪と証明しなければ、無罪としなければならない。すなわち「冤罪の可能性があれば無罪」としなければならないのだ(*2)。死刑制度を支持するなら、冤罪で死刑になる覚悟を決めねばならないのではあるまいか。

(*1)…もちろん、冤罪がなるべく起こらない制度を作る必要があるのは当然である。
(*2)…非合理な疑いの余地まで考えた「冤罪の可能性」なら、すべての被告人に冤罪の余地がある。