信教の自由

世の中には本当に沢山の宗教がある。イスラム教、キリスト教、仏教といったメジャーなものから、鰯の頭教団のような信者は教祖一人しかいないんじゃないかと思えるマイナーなものまでさまざまである。中には教祖「無宗」の教えを説く宗教である“無宗教”という一見誤解しそうな名前の宗教もある。まあ私の信仰する宗教も、信者を見つけることが苦労する位のマイナー宗教なので人のことは言えないが。そのように色々な宗教がある中で、なんと、こんなものを信仰しているんだと感心させられる宗教がある。そのひとつが科学真理教(筆者命名)である。この宗教、名前を見ればわかるように科学理論及び科学的事実を絶対の真理として信仰するものである。
考えてみればこれはすごいことである。他の宗教の場合、その宗教に従事する人間(たとえば、キリスト教の場合の神父/牧師)は、その宗教を絶対の真理として教えを説いている。しかし科学の場合は違う。科学とはもとから不確かなものであるし、それに従事する人間(すなわち科学者)自身がそういうものとして扱っている。不確かであることを前提としたものを絶対の真理として信仰できることには感心せざるをえない。信仰は個人の自由だから、聖書を信仰しようが科学を信仰しようが鰯の頭を信仰しようが自由なのであるが、この科学信仰はちょっとした問題をもたらしている。ひとことでいうと、「異なる宗教を同時に信仰してしまう矛盾」である。
当たり前であるが、世の中に存在する宗教は各々に異なる点がある。たとえばオウム真理教の「生きて悪業を重ねるものはポアした方がその人のためである」という最終解脱者麻原彰晃の教えはイエスの教えと異なっている(私はキリスト者ではないが、キリスト者に確認した)。まあこれはオウム真理教キリスト教は別の宗教なのだから、そういうこともあるだろう。麻原の教えとイエスの教えがまったく一緒のものならば、そちらの方が驚きである。さてこのように異なる宗教間に相互に矛盾があっても信者は気にしない。キリスト教オウム真理教的に見て間違っており、オウム真理教キリスト教的に見て間違っているのは単なる事実だが、キリスト者からすれば「じゃあ麻原はただの人で、絶対善・絶対真の存在ではないんだね」で終わりであるし、オウム真理教信者からすれば「じゃあイエスはただの人で聖書はただの御伽噺なんだね」で終わりである。それは個人の信仰に属する問題であり、どちらが間違っているとかいう問題ではない。
普通はそうなのであるが、仮に「キリスト者かつオウム真理教信者」のような人がいればどうなるだろうか。その人はイエスの教えと麻原の教えが矛盾していることを受け入れられない。どちらも信仰しているのだからそうなってしまう。その人はおそらく、「麻原は神の第二人格でイエスと同等の存在なのだ」とでも主張し、聖書のイエスの言葉をことごとく捻じ曲げで麻原の教えに合うように都合よく解釈しようとするだろう。麻原を神の第二人格と認めない既存のキリスト教会を攻撃することもあるかもしれない。
現実には「キリスト者かつオウム真理教信者」はいないので上記のようなことは起こらないが、なんと「キリスト者かつ科学真理教信者」という人は存在する。「創造科学」というものを主張する人たちがそうである(参考サイト)。聖書には天地創造についての記述があるが、それらは科学的事実と異なっている。これは当たり前の話だ。聖書が神の言葉を記した真理の書であるのに対し、科学は不確かなものである以上、一致している方が驚きである。普通のキリスト者(聖書のみが真理であると考える人)なら「なんだ、科学的事実って絶対の真理じゃないのね」で終わってしまう所である(そして、科学が不確かなものなのはその通りだから、その結論はまったくもって妥当である)。しかし、普通でないキリスト者(聖書が真理であるだけでなく、科学的事実もまた真理であると考える人)の場合はそうはならない。以下はNATROMさんのサイトの創造科学支持者の発言の引用である。

進化が科学的事実ということは、それはすなわち「6日間で地球が創造されたことは事実ではない」という意味になります。6日間で創造したと言っている神は嘘を言っていることになります。
(投稿者:saniku-aiki 投稿日: 2003年10月07日 0時12分)

普通のキリスト者と全く逆の考えである。普通のキリスト者なら神の言葉と科学的事実が異なれば科学の方が真理でないと考えるものであるが、創造科学支持者の場合は神の言葉と科学的事実が異なれば神が嘘を言っていると判断する(*1)。まあ科学真理教信者にとっては「非科学的=デタラメ」なのであるから聖書が非科学的であることを理由に神を嘘つき呼ばわりするのは理に適っているが、同時にキリスト者でもあるから言ってることが支離滅裂になってしまう。この点では単なる科学真理教信者の方が一貫性がある。「聖書が非科学的な書物ということは、イエスはただの人で救い主なんかではないんだね」と結論付けて終わりだからだ(本職の科学者からは叩かれる態度であるが)。
創造科学支持者の主張を見ていると、矛盾するふたつの信仰を持って生きていくのは大変なんだなあとつくづく思う。

(*1)…そもそも神の言葉より科学的事実を優先させる人をキリスト者と呼んでいいのか疑問であるが、世間一般的には創造科学支持者はキリスト者と考えられているので、その見解に従っておく。