福島事件公判

福島事件(福島県立大野病院で帝王切開を受けた女性が死亡したことで執刀医が刑事責任を問われた件)は第五回公判が終わったところである。第六回は6月に予定されていたが、証人の都合で7月20日に延期になっている。本来なら7月20日の公判の内容を見て書くべきであるが、その前に今思うところを書き留めておきたかったので、ここに記すことにした。
まず、次回7月20日に予定されている第六回公判であるが、ここがひとつの山場である。検察側提出の鑑定書(すなわち、被告人に過失ありと判断する元となった鑑定書)を書いた産婦人科医の証人尋問だからだ。ぶっちゃけた書き方をすると、彼は「被告人に過失があった」と判断しているわけである(だからこそ、検察側の証人となっている)。この件で被告人に過失があったか否かについては、ネット上で多くの医師の主張を見てきた。総合すると「被告人に過失はない」と主張されており、それは医学に素人の私ですら納得させられる、説得力のあるものである。
とはいえ、いくら裁判外で説得力のある主張が展開されていようと、裁判の行方には関係ない。犯罪事実の存否の証明については(たとえ被告人の有利となる事実であっても)厳格な証明(証拠能力があり、かつ適式な証拠調べを経た証拠による証明)を必要としている(これは裁判所が手を抜いているからではなく、我々国民が、代表者で構成された議会を通して、そのようにせよと裁判所に要請しているからである)。したがって、この鑑定書がデタラメであること(被告人に過失はないという多くの医師の主張を信用するならば、この鑑定書はデタラメのはずである)は、きちんと裁判の場で明らかにしないといけないということになる。
実際にその産婦人科医がどのような知見に基づいて鑑定書を書いたのかは次回公判を待つしかないが、ひとつだけ思いついた仮説がある。それは「社交辞令説」だ。もともと彼は、県の事故調査委員会の委員に名を連ねている。したがって「過失あり」という鑑定も、事故調の報告書に源流があることになる。世の中においては、防ぎようのないことであっても悪い結果が出れば「力及ばずすみません」と謝るのが礼儀となっている。医師の世界も例外でないと考えても外していまい。となると、事故調の報告書にそのような意味合いの記述があっても「社交辞令としての記述」として納得がいくものである。普通ならばそれに対して相手側は「手を尽くして頂いてありがとうございました」とお礼を言って丸く収まる。しかし、これはあくまで相手が普通の人間の場合である。世の中には空気の読めない人がいて、そんな人は「力が及ばなかった?お前の責任なんだな!責任取れ!」と言い出すかもしれない。
実際、事故調の調査結果を元に、病院は遺族に謝罪し執刀医(今回の被告人)は減給処分になったそうである。DQNに社交辞令は通じない。