匕(さじ)は投げられた

最近、死刑制度支持者と言うか死刑制度推進者の意見をネットで調べているのだが、これがまたあきれ返るようなたわごとが並んでいる。彼らの意見は一言で言えば「とにかく殺せ」これだけである。馬鹿も休み休みに言え。プランクトンより救いようがない。
彼らの目には、たとえ私のような死刑制度支持者の意見でも、自分たちに反対する意見は些事こだわるただの揚げ足取りにしか映っていない。これはとんでもない勘違いである。目的を達成するために手段を選ばないのは人として最大の愚行である。死刑制度に限らず、刑事司法制度を考えることは目的のための手段を考えることだ。目的のために手段を選ばない人は、刑事司法制度を考える下地ができていない。
死刑制度を維持する上で、最も考えなければならないのは冤罪の存在である。冤罪自体はなくすべきものであり、死刑制度の賛成反対にかかわらず考えていかなければならない問題であるが、神ならぬ人間には「絶対に冤罪が発生しない」制度を作ることは不可能である。どのような制度を用いても、冤罪の可能性はゼロにはできない。その上で死刑制度を維持する以上、冤罪で死刑になる可能性もゼロにはできない。
死刑制度支持者の中には、冤罪の可能性があれば無期懲役にするなどすればよいと主張するものもいるが、論外である。それは大昔、糺問主義の時代に採用されていた嫌疑刑と呼ばれる制度である。そんな制度を採用したいのならタイムマシンでも開発してもらいたい。死刑制度支持者の一人、元最高裁判事の岩佐次郎氏も次のように言っている。「死刑制度を支持する上で覚悟しなければならないことは、自分が冤罪で死刑になることである」
私は不勉強な死刑制度支持者に匕(さじ)を投げることにした。つまり、インターネット上で自分が死刑制度支持者であることを表明することをやめることにしたのだ。もちろん死刑制度反対に回るわけではない。死刑制度支持者に馬鹿がいることと、死刑制度そのものの是非はリンクしない。しかしそれは建前であり、死刑制度支持者が馬鹿だらけなのを死刑制度そのものの是非とリンクさせ、死刑制度支持者はすべからく馬鹿なのだという判断をする人はどうしても出てきてしまうだろう。私としてはそのような判断はしてほしくないが、かといって「死刑制度支持者に馬鹿がいることと死刑制度そのものの是非をリンクさせるな」と命じることはできない。
インターネットにおいて、自由なリンクを禁止することなどできないのだから。

http://www.c.csce.kyushu-u.ac.jp/~makiyama/zatsubun/PoW/10.php

  • タイトルは「匕(さじ)は投げられた」とする。
  • 「些事にこだわる」「すくいようがない」を文中に含む。
  • 「匙」「化」「北」「比」「旨」「花」「死」のいずれかの漢字を使用した格言をでっち上げ、「さじ」という音を含む名前の人が言ったことにする。例:「匙は投げるものではない。舐めるものだ」 ――サジンスキー