言論の自由の役割

真理の最上のテストは、市場の競争において自らを受け入れさせる思想の力である

  • ホームズ裁判官

「真理」という言葉を使うのには違和感があるし(「妥当性」とかならまだいいのだが)、いろいろ疑念のある見解ではあるが、考え方はこんにちでも妥当である(*1 吉田p360)。
人々が自由に意見を交換しあい(すなわち主張と反論を繰り返し)、各々の言論の妥当性を追及するというのは望ましいことであり、それを実現するのが言論の自由の役割である。

リンクは単に、言及する者とされる者の二者だけの問題ではない。
「読者に便宜をはかる」と言うように、不特定の人を呼び込むものである。
それは時に数の力を生み、多数派ではない意見をひねり潰したり、ターゲットとされた人の言論の自由を奪ったりもする。
こうして言論の多様性を損なわれることは、「言論の自由」においては大きなマイナスだ。
このようなマイナスが生じてでも外せないほどにリンクが必須だ、と言われると、到底承服できない。
そういった「潰し行為」の問題とは切り離して考えろ!とおっしゃる人もいるが、リンクの問題を考えるということは、このような問題を考えることである。

「潰し行為」というと「荒らし」や「誹謗中傷」をイメージしてしまうが、Pcha00さんの見解ではそれだけにとどまっていないようだ。

それは時に数の力を生み、多数派ではない意見をひねり潰したり、ターゲットとされた人の言論の自由を奪ったりもする。
こうして言論の多様性を損なわれることは、「言論の自由」においては大きなマイナスだ。

少数意見であるというだけで潰されることは問題であるが、妥当性を欠く意見が、支持者を得られないがゆえに淘汰されてしまうことは、自由な言論の場においてはなんら問題とされることではない。
不適切であることを明らかにされてしまった意見について、それを理由に公権力が介入してくるのならともかく、単に主張していた人がその主張を引っ込めてしまったというだけなら、その人の言論の自由が奪われたことにはならない。
「不適切な意見が多くの批判を受けることによって淘汰されてしまう」ことによって言論の多様性が失われることはよくないと考えるなら、それはトンデモとしか言いようがない。
『「言論の自由」においては大きなマイナス』とあるが、最近の公民の教科書はそんなにレベルが下がってしまったのであろうか。

(*1)…日本国憲法論/吉田善明(三省堂)


追記

(引用部略)
不適切かどうかの判断がそれぞれの読者に委ねられる以上、消されてしまうのはよろしくない。

公開された言論に対し、読者が各々に評価を行い、その評価を自身の言論として公開する。その評価もまた評価される。それは自由な言論の場の果たす役割である。

  • その消された意見を見られなかった人は不適切かどうかの判断ができない。それでは推測で意見を展開せざるを得なくなる。
  • 特定の意見が言論の場から消されれば、その意見は進展しない。また同じような意見が吹き出したときに発展のない繰り返しを行うことになる。

これらが言論の自由にとってプラスになるとは到底思えないのだが、、

もし自由な言論の場において、妥当性に欠けると判断された言論の著者が、自らその言論を消してしまったとしたら、それは非常に残念なことである(消したところで自身の言論をなかったことにはできないのだから)。だからといって、反論した人間のせいにするのは筋違いである。

(引用部略)
それ、リンクにこだわらなくても可能だし。

自身が言及している言論にアクセスするに際し、読者の利便性がよい。

読者に便宜をはかるのは結構なことだが、それは義務に等しき「責任」として負わなきゃならんものか?

言論行為をなす者としての自覚があるか否かの違いだろう。少なくとも、言論の自由(*1)を持ち出して正当化をはかるのは筋違いである。


(*1)…一般的な(人権学でいわれる)意味においての言論の自由。MY用語としての言論の自由においては正当化できるかもしれない。

受け手の便宜とリンク行為

集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

上記は表現の自由または言論の自由を保障した条文である。憲法は公法であり、専ら国家機関を規律するものであるから、上述の規定は「情報の流通にかかわる国民の諸活動が公権力により妨げられない」ということを意味する(佐藤p515)。これは明治憲法下での言論統制からの解放を目指すものとして確立されたものである。

表現の自由は、「個人の人格の形成と展開(個人的価値、自己実現の価値)」、「立憲民主主義の維持運営(社会的価値、自己統治の価値)」に不可欠な権利として保障される。さらに合衆国の憲法学者エスマンは「真理を獲得する手段」「社会における安定と変化との間の均衡の維持」を表現の自由の機能としてあげており、これは前記憲法原理を支える信条の体系といえるだろう(佐藤p514、芦部p160)。各人が自由に主張及び反論を行い、各々の妥当性が追及できることは表現の自由の持つ大きな価値のひとつである。

  • 主張と反論の重要性

ミルは自由論の第2章において、思想及び討論の自由について詳細に検討し、反論の重要性についていくつか説いている(井口p50-51)。各人が自己の意思を自由に交換できることは表現の自由を価値あるものとする上で必須のものであり、言論行為において常に念頭におかねばならぬ心構えである。

  • 自由な言論の場

自由な言論の場において、表現の自由に資するためには、自己の意思及びその正当性を受け手に伝えることが必須である。受け手のことを考えない手前勝手な言論は、それだけで批判を受けざるを得ない。すなわち言論行為とは、常に受け手の便宜を心がけて行われるべきものである。

リンクは出典を明らかにするとともに読者に簡単にアクセスするための便宜をはかるためにするもので、言論をなす者に課せられた義務であり、当然のマナーです。

特定の種類の読者に便宜をはかるのは勝手だけど、「当然のマナー」ではない。

「特定の種類の読者」が何を指すのか不明だが、読者の便宜をはかることは表現の自由に資する行為であり、言論行為においての当然持つべき心構えである。

また、義務であってはたまらない。
リンクするのが嫌な人は言論の自由がないのか。そんなデタラメな義務を持ち出すのは言論弾圧の一種と言えなくもない。

私の考えは「出所を明示するのは言論行為においては当然すべきこと(出所の明示は必ずしもリンクにはこだわらない)、ハイパーテキスト形式のファイルではリンクを用いるのが読者の便宜上よい。但し、読者の便宜を考えない文書をWebに公開するのは自由である。便宜をはかるのは義務でも何でもない。」というもの。

「読者の便宜をはからなかったからといって公権力の介入を受けてはならない」という意味では義務であるわけはない。言論の自由というのは、公権力を規律するものであるからだ。しかし「読者の便宜をはかるべし」という要請は言論の自由に資するためになされているものであり、それがなされていない言論は、それだけで批判の対象となるだろう。


  • 参考文献

  憲法/佐藤幸治(青林書院)
  憲法/芦部信喜(岩波書店)
  憲法II[人権]/井口文男(有信堂)